この映画は浅原ナオトさん原作の「彼女が好きなものはホモであってぼくではない」です。
「腐女子、うっかりゲイに告る」でドラマ化されています。
ぼくが原作を知ったのは「腐女子、うっかりゲイに告る」が放映されていた時です。
ざっくりとドラマや原作のあらすじを見た時、漠然となんでこのタイトルに変更しちゃったんだろう? という"違和感"を覚えてドラマにも原作にも手が伸びなかったのですが、映画を見てボロボロに泣いてしまったので早速Kindleで原作を購入しました。
キャッチコピーや公開されているあらすじから簡単に説明すると
主人公・安藤純は既婚のゲイと付き合っている"ホモ"で、ホモであることを隠しながら高校生活を送っている。
・三浦紗枝は"腐女子"でBL本を愛好している。
・"ふつう"を諦めたくない純君は、三浦さんに告白されたことをきっかけに付き合うことになる。
ゲイの男子高校生と腐女子の青春と愛、そこに横たわる悩みを描いた凄く胸が苦しくなる話でした。
観る前はゲイの男子高校生と腐女子が付きあうなんて無理だろうし、"ふつう"を理想とするのは理解できても既婚者の彼氏がいるにも関わらず、試すような真似をするなんてなんて不誠実なやつなんだろうと思いました。
映画を見終わっても、あの時の純君は不誠実であったとぼくは思いますが、純君の不誠実さと切実な願望に三浦さんが向き合って救われたことで、最後の最後は彼と彼女の関係がこのまま続くことを願っていました。
それ故に結末は「彼女が好きなものは」のタイトルが回収されることにぐっときながらも、少し寂しい気持ちになりました。
ただ続編があるようなので、純君がこの先に自分や世界とどう向き合っていくのか、三浦さんとの再会を楽しみにしながら原作を噛み締めながら読んでいこう思います。
映画はあまり見ないので演技の良し悪しについては分からないですが三浦さんの演技が凄く感情豊かで、可愛らしくて見ていて気持ちよかったです。
それはそれとして、やっぱり不倫・二股だけはよくないと思いました。
奥さん納得してるならいいけどさ……誠さん……。
あと本屋で山本小鉄子先生の「明日(あす)はどっちだ」が一瞬映り込んでいてよかった。その直後に「アシカはどっちだ」みたいなセリフがでてきて、絶対偶然だと思うけどニッコリしてしまった。
以下、ガッツリネタバレしているので注意してください。
1.映画館でなければ観るのをやめていたと思う。
いままでの人生を省みるに、ぼくは共感性羞恥を感じやすい傾向にありそうだ、と思っています。
アニメや映画を見ていて主人公が誤解されるシーンや恥ずかしいことをするシーンがあると早送りしたり、一度トイレに行って息継ぎをしてから覚悟を決めてから続きを観るのです。
作中で純くんがゲイであることをアウティングされるシーンを家で見ていたら、間違いなくリモコンに手が伸びていました。
小野君が「あいつがホモだってこと知ってたのかよ!」と怒鳴った時、両手のひらで顔を覆ってしまいましたが、ここは家ではなく映画館。リモコンは手元にないし、メンタルダメージにあわせて停止も早送りをしてくれません。助けて。
実は事前情報でアウティングがあるということは知っていました。ですが、もっと許し難い陰湿なアウティングかと思っていたので、予想を裏切られ、こんな憎みきれないとは思いませんでした。
そこから畳みかけるように辛い展開が押し寄せてくる。
しかも「純くんが可哀そうだから」ばかりではありません。
小野君の言うことにも尤もらしい点はあるのです。正確にセリフは覚えていませんが、
「ホモであることを自分で気持ち悪いと思っていたから嘘をついていたのではないか」
「女子更衣室に俺が『そんな目で見てないから』って言いながら入ったとして許されると思うのか」
等、結構痛いところをついてきます。
これを差別的な発言と捉えるかは人によると思うのですが、小野君の怒りの原点が「小野くんの主観で三浦さんを、そして幼馴染を裏切ったこと(幼馴染が三浦さんを好きであることを知りながら同性愛者であることを隠して、自分を試すようにして性愛の対象ではない三浦さんの告白を受け入れたこと)」なので、アウティングがもたらす結果について意識が向かない程に激昂していた状態であったことに問題はあるものの、小野君は一貫してフラットな目線で純君の"裏切り"に憤っていたのだと感じました。
結構しんどかったのが純君の自殺未遂をきっかけに全校でLGBT教育が進められた時です。
LGBTについてどう思うか、という問いかけに「私は差別しない」「性的指向は自由」「もし俺がゲイなら……」
その教育そのものを否定するつもりはありませんが、身近な当事者や身近な自殺未遂を、"可哀想な生きたサンプル"として扱わっている自覚があるのかな……って考えるとかなり悲しく……悪気はないのでしょうが……そう感じてしまうのは被害妄想かもしれないけど……。
全校にゲイバレしたのも嫌……いや、亮平くんの言う通り自殺未遂したらそりゃあねって感じではあるけど。
ぼくは昔からLGBT教育の「やってやってる感」が嫌いでしたし、ゲイの生きづらさを全て差別に押しこめようとすることに傲慢さを感じていました。差別がなくなっても生きづらいよ。だって人数少ないんだもん。
ただ昔のゲイはその人数の少なさがもっとしんどさや差別に繋がっていたと思う。だって、ナイモンもSNSもないもんな。昨今の教育でやたらカミングアウトさせようとしてくるの、出会うために自らが何者か表明する必要のある時代の名残だったのではとよく思います。
話は戻って。
純くんが入院先で母親に吐露した気持ちは、小野君が憤怒した純君の裏切りは、決して差別がなくなったからといって解決するような単純な話ではなく、より複雑に現実問題と絡みついた話です。
人生を構成している要素は性愛だけではないはず。母親に孫を抱かせてやりたい。道行く幸せそうな家族のようになりたい。孤独死したくない。
そもそも結婚10年の夫婦がどれだけ互いに性愛を見出しているのか怪しいものです。
必ずしも性愛と1セットではない欲望が、手に入れるときにだけ性愛とバンドルされて店頭に並んでいる。
父親のいない純君だからこそ、家族に対する憧れが強かったのかもしれない。理想に対するギャップは差別だけが問題ではない。
だからこそ、一貫して安藤純を安藤純として見ている小野君が学級会に一石を投じた時はリモコンから手が離れて、ほっとした。
2.三浦さんという腐女子は
最初図太い女の子だと思った。
BLが好きであることが女子グループに発覚して以来、「え、きも」の三文字で迫害された傷をもつ女の子。
そのトラウマからBL好きが純君にバレた際に秘密を守って欲しいとお願いするんだけど、一方で腐女子グッズの買い物に純君を誘うという流れは「ぼくが知らないだけで、世の中の人間はそれくらいの図太いのが普通なのかな……」と思ったりもした。後に戦略だと分かって笑ってしまった。メンタルつよつよぢゃん。
でも彼女がそんな傷をもつこと、BLを熱烈に愛していることは間違いなく純君を救う原動力になっていたはずなので、三浦さんには悪いけど純君が"ふつう"を試す相手が彼女であってよかった。
話は逸れるけど商業BL持ってる冊数がヤバい。
ぼくも引っ越すときはダンボール二箱分くらいは泣く泣く商業BLを捨てたけど、それは新社会人のなけなしと言えどもそこそこある手取りをじゃぶじゃぶAmazon君に注いだからだよ。三浦さん、バイト代どんだけ注いでるの……。
話は戻って。
ほんとに誠さんと純君のキスシーンを目撃した三浦さんは本当に可哀想だった。
「いいじゃん。好きなんでしょ、ホモ」(だったかな)が辛かった。純君自身が分かっているけど、彼女が好きなものは純君であってホモではないのに……
そんな目に会いながら、純君がホモだとカミングアウトした時にもまだ純君を好きでいてくれるの本当に心強かった。
最後、純君のためにマイクを奪うシーンは笑うと同時に目が潤んでしまって複雑な表情をしてしまったと思う。彼女が壇上で語る経験と続く言葉は、彼女が腐女子であったから安藤純に寄り添えたのではなく、彼女が三浦紗枝であったからと言うのに充分だった。
あとBL星……BL星に三浦さんも行きたいって言ってたけど、BL星に行ったら多分三浦さんはマイノリティだけど大丈夫かな……
彼女はBLと現実のゲイを切り分けていたように感じて、個人的にはすごく好印象でした。
余談?些細な疑問?なんだけど
演説の後、三浦さんのもとに向かう純くん。その純くんを見るクラスメイトの女の子。
かなり渋い顔をしていたんだけど、あれは三浦さんの演説に感極まってしまったのか、それとも三浦さんを悲しませた純くんに対する嫌悪なのか、どっちだったんだろうって思った。
3.総括
すごくオススメの映画。
LGBT教育が進んだ今だからこそ、取りこぼしてほしくないことがこの映画では描写されている。
あとは原作を読むだけ。
本当はファーレンハイト?くんのこととか、作中4人目のゲイとか色々書きたかったけど
原作に色々書いてある波動を感じたので書きません。
あと慣れない長文にだんだんまとまりがなくなってきて疲れたよぼくは
余談:“理解者”につき纏うステロタイプ
※攻撃的な表現が多々あります。特に二次創作BLを愛好する人はご注意ください。
この映画で一番最初に殺意を抱いたのは、三浦さんの先輩の彼氏。
ハイパークソノンケ。
身近にいるゲイを一般化して語り、噂話を信じてロッカキー云々をバカデカい声で語る。
目を見りゃゲイかどうか分かるとか、お前目の前のゲイとりこぼしてんじゃねえか。
おまけに「純くんってホモフォビア?」みたいに聞いてくるシーンが最悪だった。
偏った世界観で想像力が欠如してるくせに、理解者面するばかりか他人の内面を決めつけて差別者扱いするとかイカれてんじゃねえの? 失せろゴミクズ……と思わせる俳優さんと作者あるいは演出家はすごいと思いました。
この手の“理解者”というのにはぼくも辟易としている。
この映画のポスターが発表されたときに、実は「“ふつう”の幸せを諦めたくない」ってキャッチコピーが局所的に炎上していた。これに「同性愛者は同性愛者と結婚するのが普通の幸せなんだよ」って性愛至上主義的批判がついていて、当事者の他、非当事者にも少なからず賛同を得られていたように思う。局所的に。
純くんの普通は純くんの普通だし、お前の普通はお前の普通だわ。主語がでかいわ。多様性は他人の普通という名の理想を許容できないあなたと対偶にある言葉なのよ。
先に述べた三浦さんの先輩の彼氏のステロタイプは“目を見れば分かるほどの個性があり、センスも独特な人たちで銭湯ではロッカキーを足首につける”とかいう、それでよく理解者を気取ろうとしたなって感じであるのに対して最近の自称理解者は“ゲイ=自分のセクシャリティに前向きで、性愛に殉じる生き方が一番の幸せ”だと思っている節があるように感じる。それを最上の幸せだと思っていないゲイは大勢いるし、性愛を諦めてでも家庭を持って家族愛に生きる人もいるし、性愛なんて人生の一要素だと割り切ってる人もいる。
ただ男にチンコが勃つだけなんすわ。
ステロタイプを信奉し、個人が当たり前に持ちうる様々な願望が無視されがちだと感じる。ステロタイプの怒り方しかできない。
ホモという言葉を当事者たちから取り上げているのは、間違いなくマジョリティなのに。マジョリティの想定するステロタイプなマイノリティがその言葉を嫌がっているからと、教科書に載せ、言葉狩りをしている。
ステロタイプのゲイは明るく、前向きで、社会的な活動に意欲があり、社会をよりよくしようとし、BLが好きで、腐女子のすべてを肯定する。
そんな神様のような想像のゲイをもとに、傲慢なマジョリティを断罪する存在だと勘違いしている。
ぼくもかつて商業BLがトレンドに入った際に「原作の恋愛を無視してゲイにされるのが辛い」と書いてバズった。この時、「異性愛規範」「ホモフォビア」だとリプライを結構もらった。
俺はこれを解釈違いの話として出したつもりだけど、どうにも原作の恋愛を無視した二次創作BLが嫌いなゲイがいるとは露とも想像できなかったみたいだ。
神様のようなゲイはBLにエンパワメントされて腐女子のすべてを肯定してくれるから。
慣れ親しんだ少年漫画で描写された一つの恋愛を、自身の欲望を満たすために改変し、セクシャリティをオモチャにしてエンタメ消費・セックス文脈に押し込む非当事者に不快感を覚えてはいけないのだろうか。二次創作が清廉潔白でゲイをエンパワメントしている社会的に正しくて素晴らしい創作物だと思っているのだろうか。
そういう傲慢なところが、俺はすごく嫌いだよ。
二次創作自体は好きにすればいいし、表現の自由なんで法に触れない範囲で好きに表現してください。
ただ不快に思われる可能性は頭にいれておいたほうがいいと思いますよ。
「異性愛者と断言されてないから、同性愛者かもしれない」までは「まぁ、そうね」と思うけど
一貫して「ゲイに“される”のが辛い」と“してる主体”に対する嫌悪感を表明しているのに、「ホモフォビアに違いない」というマジョリティ様による傲慢な決めつけの前には「原作の恋愛をなかったことにして、セクシャリティを軽率にエンタメ消費するお前が嫌い」というのは伝わらない。ゲイが嫌いなら「ホモになるのが辛い」って書くと思うわ。
多分そういう当事者がいるってことがアップデートされてないのか、解像度が低過ぎて見えてないんだろうね。
神様のことばかり見ているあなたには。
理解者を自称して、都合のいい当事者をアクセサリーにして“自分を正しい側に置こうとする人たち”が嫌いで嫌いで仕方ない。