【ネタバレ注意】DQX Version7.0感想

 ドラゴンクエストX、バージョン7が無事実装されましたね。

 ぼくは以前ほどドラゴンクエストX"だけ"やるみたいなモチベーションはあまりなく、色んなゲームに目移りをしながら楽しく自堕落なGaming Lifeを送っています。いつまでも同じゲームをやり続けず、そろそろ区切りをつける頃合いかもと思いましたが、やはりストーリーが続くなら気になってしまうので買ってしまいました。

これがVersion7.0の世界・・・

ログインしてまずやったことはペンギンを買って写真を撮ることでした。かわいいね。

さて、近況報告はこの辺にして本編のネタバレ込みの感想をぼちぼち書いていきたいと思います。

 

1.PVを見て

 PVが公開された時「あ、なんだ想像してたよりも滅びてないな」が感想でした。

 たしかにひと目でメネト村に危機が訪れていることは分かりますが、アマラーク王国はセントシュタイン王国を思わせる堅牢な城を持ち、ムニエカの街は長髪メガネにやや胡散臭い雰囲気はあるものの陽気な音楽が聴こえてくるようでした。

 バージョン6をプレイする中でテトラルさんの惨状や鉱石化した兵士たちの姿を見て、永久の揺り籠ことドラクエ9の世界は創世の力を吸いつくされ、鉱石化ビームによりカチンコチンになってしまっているものと思っていました。

 

2.実際にストーリーをプレイしてみて

まずは評価ですが、すごく面白かったです。Version6で語られたグランゼニスとジアクトの戦いについて語られつつも、適度に謎を残した幕引きが次回への期待を高めてくれます。

 

そして「あ、なんだ想像してたよりも滅びてないな」への答えとして

「やっぱめっちゃ滅びとるやんけ」がでてきました。

その象徴的なのはムニエカの街でしょうか。

PVではあんなにも賑やかな街でした。実際にめちゃくちゃ賑やかでした。

 

ただその実態は一度滅びたものの、正体不明の女性の助けにより人形化することで生きながらえ生前の街を記憶通りに復興し変わらぬ生活を営み続けるというディストピア(?)でした。

老いることなく疲れも知らず、一方で味覚のような人間としの機能を失い、自由意志はあるものの狭く閉じた世界から逃げることができない。ダンジョン飯の黄金郷みたいだね。

おまけにあの街の町長、エドアルドさん

人形として長く生きた影響か、人形至上主義になっていて、悪意なく”プレゼント”として人形化を進める始末。サイコパス・・・とは違うんですよねきっと。あれは本当にあれをプレゼントだと思ってるんだろうな・・・怖い。

 

でもナンラカノチカラ(創生のチカラ)が失われたら、不死性を失うことは知ってるっぽいんですよね。

やっぱサイコパスだわ。エドアルド。

そして結晶の森のボス、あれは人形化した後に逃げ出した住民でしょう。息子が家出をしたお婆さんが街にいましたが、その息子だと予想します。

結晶の森には朽ちた女神像がありましたね。ゼニアスではとうに失われた女神信仰に縋って辿り着いた先、創生のチカラが失われたことであんな化け物になったのかな・・・可哀想・・・。

それにしても結晶の森のボス”嘆きのロベール”。主人公視点でもプレイヤー視点でも、彼の名前を”ロベール”と知る術はなかったはずなので結構謎なネーミングでした。

 

メネト村もメネト村で住民全員眠っているという始末。

住民を寝させて”悪夢”から逃がす→朝が来たらまれびとが起こすみたいなシステムだと解釈しましたが、まれびとがいなくなったことによりそのシステムが破綻してしまったようですね。待てど暮らせど夜は明けません。

そもそも”夜”や”朝”が本当に我々がよく知る”夜”と”朝”を指しているのか・・・

”夜"と"悪夢”はジアクトによる侵攻や呪い、”朝”を危機の消失を指しているならフクロウを倒したことが必ずしも良かったこととは言えないのかなって思いました。

 

いつああなったかは不明ですがメネト村周辺にジアクト構造物がないことを考えると、時間を停止させて夜を繰り返すことでジアクトや創失の呪いによる被害を抑えたとかなのかな。

ウォルド地方・レストリア平野・タービア草原(アマラーク地域)・ムニエカ地方には写真のような碑石があるのになぜかメネト地域・ラランブラ山道にはこの碑石がないんですよね。(あるかもしれませんが、見つけられませんでした)

碑石の内容からフォーリオンが出航後に建てられたものであることが窺えるので、もしメネト村が時間停止やそれに類する手段でジアクト等からの被害を抑えたのなら建っていないことにもうっすら理由がつきます。(多分この予想は外れます

それにしてもトープスくんの正体が分からん。全然想像つかない。

住人の目覚めとともに消えたってことは・・・どういうこと? 夢の中の存在が顕現したってこと?

 

そしてアマラークに関して言えば、あれはセントシュタイン城に住んでいた人々が滅びた後にきた移民なんですよね。だから今回舞台となった大陸に関してはメネト村と聖湖ゼニート以外の人間は滅びているようですね。

構造もセントシュタイン

堅牢な城と砂漠の遊牧民の文化が混じり合っているデザインって面白いですね。

最初PV見た時、リズク王の国とセントシュタイン風の城が同じ場所だと思いませんでした。

というかフーラズーラ襲撃後、兵士の数がちゃんと減ってるのが辛いわこの国。

イルシームさんめっちゃ高潔なのがかっこよかったです。ただ事前公開のイラストを見るとエックスくんと同じ骨格を使わず、専用モデルにしてほしかったのが正直なところ。

 

3.どこか消化不良で終わる各町の物語

これ多分プレイしたヒトはみんな思ってることだと思うけど、各町のお話を意図的に完結させてないですよね。ざっと思い返しただけで説明がついていないことがこれだけあります。

■ムニエカの街

(1)エドアルドとともに復興させた女性

(2)行方不明になってる一軒家の住人

(3)動かない女性型の人形

 

■メネト村

(1)トープスくんの行方と正体

(2)”まれびと”の正体

 

■アマラーク

(1)フーラズーラ元凶の討伐

(2)黒槍を城内に残した人物

(3)下働きの男性の名前や、罪の証拠を人知れず集めたリズク王

 

ムニエカは創生のチカラの欠落、メネトはまれびとの喪失、アマラークは創生のチカラが薄いことによる弊害(?)でしょうか。

いずれにしても何らかの救済をしようとした存在がほのめかされますが、今回その存在が何者か、そもそも同一人物なのかは一切明かされず・・・・・・

 

同一人物ならムニエカの件から、おそらく創生の力を操れるわけで・・・

そういえばポルテちゃんはかなり創生の力と馴染み深いようですね。じゃあ師匠がそのヒトだって可能性もあるんじゃないでしょうか。

 

4.これからどうなるの

ほんとにね。

これからどうなるの?

 

各町の未消化部分がどうなるのかなってことが気になるんですが、各地方を巡ってみた感じ、マップに拡張できそうなポイントがないんです。

だから予測できない。

Version5だったら未開通の関所があちこちにあったし、Version6は赤い神殿がぷかぷか浮いてたし闇堕ち英雄に関連するマップへ行くんだろうなって想像はついたじゃないですか。

 

じゃあバージョン7は?

いまの大陸が使えないなら、他の大陸いくのかな?

そうするとムニエカ・メネト・アマラークの未消化部分はどういう語られ方をするんだろう。

 

ただちょっと気になったのはタービア草原の碑石と、ムニエカ地方の思わせぶりな家が現時点でいけないことなんですけど・・・これワンチャン空飛べるようになる?

※タービア草原の碑石

※ムニエカ地方の家

 

あとラランブラ山道にある墓もなんか思わせぶりですよね

 

あえて挙げるとすればタービア草原、ラランブラ山道、レストリア地方、ムニエカ地方になぜか一本だけ生えてる「キノコが生えたバカでかい樹」の存在も気になる樹です。

これらの地域は植生が微妙に違うので、なんでこいつだけ各地域に一本だけ生えてるのか。

異質なんですよね。

でも、これ多分「方向を見失わないように生やしてるオブジェクト」なんじゃないかなぁと思ったので、自分の中では解決済みです。

 

5.おわり

とりあえず先の展開がすごく気になります。

いまのところ推しキャラとかはない感じですが、ラキくんにハマりそうな予感はしています。

あと敢えて言うならドゥラくんが好きです。なんか序盤めっちゃ瞳孔開いてましたね。熱い男はいい男。

 

景色がいいので、色んなマップに行きたいですね。



 

映画「彼女が好きなものは」感想

この映画は浅原ナオトさん原作の「彼女が好きなものはホモであってぼくではない」です。
腐女子、うっかりゲイに告る」でドラマ化されています。

 ぼくが原作を知ったのは「腐女子、うっかりゲイに告る」が放映されていた時です。
 ざっくりとドラマや原作のあらすじを見た時、漠然となんでこのタイトルに変更しちゃったんだろう? という"違和感"を覚えてドラマにも原作にも手が伸びなかったのですが、映画を見てボロボロに泣いてしまったので早速Kindleで原作を購入しました。

 

 キャッチコピーや公開されているあらすじから簡単に説明すると
主人公・安藤純は既婚のゲイと付き合っている"ホモ"で、ホモであることを隠しながら高校生活を送っている。
・三浦紗枝は"腐女子"でBL本を愛好している。


・"ふつう"を諦めたくない純君は、三浦さんに告白されたことをきっかけに付き合うことになる。

 

 

 ゲイの男子高校生と腐女子の青春と愛、そこに横たわる悩みを描いた凄く胸が苦しくなる話でした。
 観る前はゲイの男子高校生と腐女子が付きあうなんて無理だろうし、"ふつう"を理想とするのは理解できても既婚者の彼氏がいるにも関わらず、試すような真似をするなんてなんて不誠実なやつなんだろうと思いました。
 映画を見終わっても、あの時の純君は不誠実であったとぼくは思いますが、純君の不誠実さと切実な願望に三浦さんが向き合って救われたことで、最後の最後は彼と彼女の関係がこのまま続くことを願っていました。
 それ故に結末は「彼女が好きなものは」のタイトルが回収されることにぐっときながらも、少し寂しい気持ちになりました。
 ただ続編があるようなので、純君がこの先に自分や世界とどう向き合っていくのか、三浦さんとの再会を楽しみにしながら原作を噛み締めながら読んでいこう思います。
 映画はあまり見ないので演技の良し悪しについては分からないですが三浦さんの演技が凄く感情豊かで、可愛らしくて見ていて気持ちよかったです。

 それはそれとして、やっぱり不倫・二股だけはよくないと思いました。
 奥さん納得してるならいいけどさ……誠さん……。


 あと本屋で山本小鉄子先生の「明日(あす)はどっちだ」が一瞬映り込んでいてよかった。その直後に「アシカはどっちだ」みたいなセリフがでてきて、絶対偶然だと思うけどニッコリしてしまった。

 

以下、ガッツリネタバレしているので注意してください。

1.映画館でなければ観るのをやめていたと思う。
 いままでの人生を省みるに、ぼくは共感性羞恥を感じやすい傾向にありそうだ、と思っています。
 アニメや映画を見ていて主人公が誤解されるシーンや恥ずかしいことをするシーンがあると早送りしたり、一度トイレに行って息継ぎをしてから覚悟を決めてから続きを観るのです。

 作中で純くんがゲイであることをアウティングされるシーンを家で見ていたら、間違いなくリモコンに手が伸びていました。

 小野君が「あいつがホモだってこと知ってたのかよ!」と怒鳴った時、両手のひらで顔を覆ってしまいましたが、ここは家ではなく映画館。リモコンは手元にないし、メンタルダメージにあわせて停止も早送りをしてくれません。助けて。
 実は事前情報でアウティングがあるということは知っていました。ですが、もっと許し難い陰湿なアウティングかと思っていたので、予想を裏切られ、こんな憎みきれないとは思いませんでした。

 そこから畳みかけるように辛い展開が押し寄せてくる。
 しかも「純くんが可哀そうだから」ばかりではありません。

 小野君の言うことにも尤もらしい点はあるのです。正確にセリフは覚えていませんが、
「ホモであることを自分で気持ち悪いと思っていたから嘘をついていたのではないか」
「女子更衣室に俺が『そんな目で見てないから』って言いながら入ったとして許されると思うのか」
 等、結構痛いところをついてきます。
 これを差別的な発言と捉えるかは人によると思うのですが、小野君の怒りの原点が「小野くんの主観で三浦さんを、そして幼馴染を裏切ったこと(幼馴染が三浦さんを好きであることを知りながら同性愛者であることを隠して、自分を試すようにして性愛の対象ではない三浦さんの告白を受け入れたこと)」なので、アウティングがもたらす結果について意識が向かない程に激昂していた状態であったことに問題はあるものの、小野君は一貫してフラットな目線で純君の"裏切り"に憤っていたのだと感じました。

 結構しんどかったのが純君の自殺未遂をきっかけに全校でLGBT教育が進められた時です。
 LGBTについてどう思うか、という問いかけに「私は差別しない」「性的指向は自由」「もし俺がゲイなら……」
 その教育そのものを否定するつもりはありませんが、身近な当事者や身近な自殺未遂を、"可哀想な生きたサンプル"として扱わっている自覚があるのかな……って考えるとかなり悲しく……悪気はないのでしょうが……そう感じてしまうのは被害妄想かもしれないけど……。

 全校にゲイバレしたのも嫌……いや、亮平くんの言う通り自殺未遂したらそりゃあねって感じではあるけど。

 


 ぼくは昔からLGBT教育の「やってやってる感」が嫌いでしたし、ゲイの生きづらさを全て差別に押しこめようとすることに傲慢さを感じていました。差別がなくなっても生きづらいよ。だって人数少ないんだもん。
 ただ昔のゲイはその人数の少なさがもっとしんどさや差別に繋がっていたと思う。だって、ナイモンもSNSもないもんな。昨今の教育でやたらカミングアウトさせようとしてくるの、出会うために自らが何者か表明する必要のある時代の名残だったのではとよく思います。

 話は戻って。
 純くんが入院先で母親に吐露した気持ちは、小野君が憤怒した純君の裏切りは、決して差別がなくなったからといって解決するような単純な話ではなく、より複雑に現実問題と絡みついた話です。

 人生を構成している要素は性愛だけではないはず。母親に孫を抱かせてやりたい。道行く幸せそうな家族のようになりたい。孤独死したくない。
 そもそも結婚10年の夫婦がどれだけ互いに性愛を見出しているのか怪しいものです。
 必ずしも性愛と1セットではない欲望が、手に入れるときにだけ性愛とバンドルされて店頭に並んでいる。

 父親のいない純君だからこそ、家族に対する憧れが強かったのかもしれない。理想に対するギャップは差別だけが問題ではない。 

 だからこそ、一貫して安藤純を安藤純として見ている小野君が学級会に一石を投じた時はリモコンから手が離れて、ほっとした。

2.三浦さんという腐女子
 最初図太い女の子だと思った。
 BLが好きであることが女子グループに発覚して以来、「え、きも」の三文字で迫害された傷をもつ女の子。
 そのトラウマからBL好きが純君にバレた際に秘密を守って欲しいとお願いするんだけど、一方で腐女子グッズの買い物に純君を誘うという流れは「ぼくが知らないだけで、世の中の人間はそれくらいの図太いのが普通なのかな……」と思ったりもした。後に戦略だと分かって笑ってしまった。メンタルつよつよぢゃん。
 
 でも彼女がそんな傷をもつこと、BLを熱烈に愛していることは間違いなく純君を救う原動力になっていたはずなので、三浦さんには悪いけど純君が"ふつう"を試す相手が彼女であってよかった。

 話は逸れるけど商業BL持ってる冊数がヤバい。
 ぼくも引っ越すときはダンボール二箱分くらいは泣く泣く商業BLを捨てたけど、それは新社会人のなけなしと言えどもそこそこある手取りをじゃぶじゃぶAmazon君に注いだからだよ。三浦さん、バイト代どんだけ注いでるの……。

 話は戻って。
 ほんとに誠さんと純君のキスシーンを目撃した三浦さんは本当に可哀想だった。
「いいじゃん。好きなんでしょ、ホモ」(だったかな)が辛かった。純君自身が分かっているけど、彼女が好きなものは純君であってホモではないのに……

 そんな目に会いながら、純君がホモだとカミングアウトした時にもまだ純君を好きでいてくれるの本当に心強かった。
 最後、純君のためにマイクを奪うシーンは笑うと同時に目が潤んでしまって複雑な表情をしてしまったと思う。彼女が壇上で語る経験と続く言葉は、彼女が腐女子であったから安藤純に寄り添えたのではなく、彼女が三浦紗枝であったからと言うのに充分だった。

 

あとBL星……BL星に三浦さんも行きたいって言ってたけど、BL星に行ったら多分三浦さんはマイノリティだけど大丈夫かな……

彼女はBLと現実のゲイを切り分けていたように感じて、個人的にはすごく好印象でした。

 

 余談?些細な疑問?なんだけど
 演説の後、三浦さんのもとに向かう純くん。その純くんを見るクラスメイトの女の子。
 かなり渋い顔をしていたんだけど、あれは三浦さんの演説に感極まってしまったのか、それとも三浦さんを悲しませた純くんに対する嫌悪なのか、どっちだったんだろうって思った。

3.総括
すごくオススメの映画。

LGBT教育が進んだ今だからこそ、取りこぼしてほしくないことがこの映画では描写されている。

 

あとは原作を読むだけ。

本当はファーレンハイト?くんのこととか、作中4人目のゲイとか色々書きたかったけど

原作に色々書いてある波動を感じたので書きません。

あと慣れない長文にだんだんまとまりがなくなってきて疲れたよぼくは


余談:“理解者”につき纏うステロタイプ
※攻撃的な表現が多々あります。特に二次創作BLを愛好する人はご注意ください。


 この映画で一番最初に殺意を抱いたのは、三浦さんの先輩の彼氏。
 ハイパークソノンケ。
 身近にいるゲイを一般化して語り、噂話を信じてロッカキー云々をバカデカい声で語る。
 目を見りゃゲイかどうか分かるとか、お前目の前のゲイとりこぼしてんじゃねえか。
 おまけに「純くんってホモフォビア?」みたいに聞いてくるシーンが最悪だった。

 偏った世界観で想像力が欠如してるくせに、理解者面するばかりか他人の内面を決めつけて差別者扱いするとかイカれてんじゃねえの? 失せろゴミクズ……と思わせる俳優さんと作者あるいは演出家はすごいと思いました。

 この手の“理解者”というのにはぼくも辟易としている。
 この映画のポスターが発表されたときに、実は「“ふつう”の幸せを諦めたくない」ってキャッチコピーが局所的に炎上していた。これに「同性愛者は同性愛者と結婚するのが普通の幸せなんだよ」って性愛至上主義的批判がついていて、当事者の他、非当事者にも少なからず賛同を得られていたように思う。局所的に。
 純くんの普通は純くんの普通だし、お前の普通はお前の普通だわ。主語がでかいわ。多様性は他人の普通という名の理想を許容できないあなたと対偶にある言葉なのよ。

 

 先に述べた三浦さんの先輩の彼氏のステロタイプは“目を見れば分かるほどの個性があり、センスも独特な人たちで銭湯ではロッカキーを足首につける”とかいう、それでよく理解者を気取ろうとしたなって感じであるのに対して最近の自称理解者は“ゲイ=自分のセクシャリティに前向きで、性愛に殉じる生き方が一番の幸せ”だと思っている節があるように感じる。それを最上の幸せだと思っていないゲイは大勢いるし、性愛を諦めてでも家庭を持って家族愛に生きる人もいるし、性愛なんて人生の一要素だと割り切ってる人もいる。
 ただ男にチンコが勃つだけなんすわ。

 ステロタイプを信奉し、個人が当たり前に持ちうる様々な願望が無視されがちだと感じる。ステロタイプの怒り方しかできない。

 ホモという言葉を当事者たちから取り上げているのは、間違いなくマジョリティなのに。マジョリティの想定するステロタイプなマイノリティがその言葉を嫌がっているからと、教科書に載せ、言葉狩りをしている。

 ステロタイプのゲイは明るく、前向きで、社会的な活動に意欲があり、社会をよりよくしようとし、BLが好きで、腐女子のすべてを肯定する。

 そんな神様のような想像のゲイをもとに、傲慢なマジョリティを断罪する存在だと勘違いしている。

 

 ぼくもかつて商業BLがトレンドに入った際に「原作の恋愛を無視してゲイにされるのが辛い」と書いてバズった。この時、「異性愛規範」「ホモフォビア」だとリプライを結構もらった。
 俺はこれを解釈違いの話として出したつもりだけど、どうにも原作の恋愛を無視した二次創作BLが嫌いなゲイがいるとは露とも想像できなかったみたいだ。

 

 神様のようなゲイはBLにエンパワメントされて腐女子のすべてを肯定してくれるから。


 慣れ親しんだ少年漫画で描写された一つの恋愛を、自身の欲望を満たすために改変し、セクシャリティをオモチャにしてエンタメ消費・セックス文脈に押し込む非当事者に不快感を覚えてはいけないのだろうか。二次創作が清廉潔白でゲイをエンパワメントしている社会的に正しくて素晴らしい創作物だと思っているのだろうか。


 そういう傲慢なところが、俺はすごく嫌いだよ。
 
 二次創作自体は好きにすればいいし、表現の自由なんで法に触れない範囲で好きに表現してください。
 ただ不快に思われる可能性は頭にいれておいたほうがいいと思いますよ。

異性愛者と断言されてないから、同性愛者かもしれない」までは「まぁ、そうね」と思うけど
一貫して「ゲイに“される”のが辛い」と“してる主体”に対する嫌悪感を表明しているのに、「ホモフォビアに違いない」というマジョリティ様による傲慢な決めつけの前には「原作の恋愛をなかったことにして、セクシャリティを軽率にエンタメ消費するお前が嫌い」というのは伝わらない。ゲイが嫌いなら「ホモになるのが辛い」って書くと思うわ。
 多分そういう当事者がいるってことがアップデートされてないのか、解像度が低過ぎて見えてないんだろうね。

 神様のことばかり見ているあなたには。

 

 理解者を自称して、都合のいい当事者をアクセサリーにして“自分を正しい側に置こうとする人たち”が嫌いで嫌いで仕方ない。

【ネタバレ注意】ドラクエ10 ver6.0感想

Ver6.0クリア後感想と今後の展開予想

ネタバレ超注意

 

 

ストーリーをクリアしていないなら、見ないことを推奨。

+かなり妄想が含まれています。

 

この記事を読んだうえで

「浪費した時間」

「ストレス」

について、その責を私は負わないものとします。

続きを読む